プロフィール詳細

プロフィールの詳細は以下の通りです。

菅野哲正(かんののりまさ)の歴史

こんな男なのです

 S42年10月生まれ、てんびん座のB型で、福島県いわき市内郷の生まれ育ちです

 高校までは、ひたすら野球に打ち込み、野球こぞうでした。
 それまでの思い出というと、本当に野球の練習しか覚えていないんですね。
 監督はかの有名な、昭和46年・甲子園準優勝投手、田村さんです(磐城高校)。
 とにかく怖かった...

  自分の中であんなに怖い人はいないだろう・・

 高校時代の野球部仲間とは、今も深く付き合いを持っており、本当に良い体験でした。

 その後、茨城大学に進学しましたが、大学ではなぜか「モダンバレエ」にはまりました。
 モダンバレエも面白かったし、得るものも多かったですね。
 ひそかに日本でもトップクラスのダンサーになりたいなんて思っていました。
 でもあまり才能が無かったんですね。創作舞踊もなかなか肥やしとなりましたよ。

 あとバイクが好きで、スズキの「RG-γ」の初期型に乗っていました。

 大手生命保険会社で12年間勤続後、2002年3月に独立を志向して退社しました。
 生保会社時代は営業畑で、副所長3年、営業所長を6年間任され、指揮を執りました。

 27才くらい前まではサーファーでしたが、その後身体が重くなってしまい、
 ウィンドサーフィンをメインにしていました。
 しかし勉強と仕事続きで、今は運動を休止中・・
 かなり身体が重くなってきました・・、やばいです。

 家族は、妻と一男一女です。

 モットーは「日々思い出作り」

※仕事は人生道場であり、学習の場であると考えて全力で取り組んできました。
 もともと体育会系であるため、情熱や根性が大好きなんですね。

理念と思想
◎ 社労士やFPの守備範囲を通じて、世の中に貢献していきます。
◎ 持っているネットワークで、あらゆる問題解決のお手伝いをします。
◎ 仕事は人生道場であり、日常の中で人格完成を目指します

誰が呼んだか「涙の背番号4」

 以下は母校の福島県立磐城高校野球部100周年記念誌に寄せた自分の手記です。
 このサイトを訪れた方にも是非ご覧いただきたく披露します。

 忘れもしない1985年の6月21日・・・

 夏の甲子園予選である県大会を1ヶ月前に控える時期に事故は起こった。

 スクイズの練習中だったが、目の前にボールが来た。
「いつも通り当てなくては!」と簡単にバットを出したが、なぜかファールチップをして右目を直撃した。

 目から火花が飛び出たような衝撃と、顔全体に血の匂いが覆ってきたような感じだった。
 そして次第に気が遠くなったのをなんとなく覚えている。

 至急病院に連れて行ってもらったが、診断結果は「硝子体眼底出血」、
 網膜剥離の可能性もあるとのことで急遽入院に至り、
 3週間絶対安静、全治3ヶ月という惨いものとなった。

あの瞬間に自分の夏、いや高校生活は終わったと思った。

 しかし自分がいなくては大変だ、と密かながらも強烈に思っていた自分は、全体安静の中、静かに身体を動かしてみたが、目がぼやける。
 見つかって医師から、「将来を棒に振る気か!」と叱られた。
 しかしながら若かった自分は、「目なんか見えなくなくても関係あるか!」本気でそう思っていた。

 ところが見えなくなる恐怖と、医師と家族からの説得で断念を決意し、自分の高校生活にピリオドを打つつもりだった。
 身体中の力が失せて、将来の希望も消えてしまったようだった・・・。

 当時背番号「4」をいただいていた自分は、田村監督に、
「自分はプレーできないので背番号をお返ししたい」と、
 絶対安静が解けた本番1週間前に田村監督のもとに訪れた。

 しかし監督に逆に一喝された。
「誰がなんと言おうとお前がレギュラー番号だ!」

「お前が誰よりも頑張ってきたことを、俺は認めている」

 非常に重い言葉だった・・

 また当時入院中の自分に対して野球部の仲間は連日のように病院に顔を出してくれた。
 練習で疲れている中、本当に感謝している。

 そんな中、仲間は「菅野を甲子園に連れて行く」と合言葉のように言ってくれて、
 プレーは出来なかったが、あの仲間たちと出会えて本当に幸せだったと痛感している。

 結果は10年ぶりの甲子園、誰もが待ち望んでいた結果で締めくくってくれた。
 あれから20年強、誰もが感じるだろうが、磐高野球部は自分の原点であり、辛いときを確実に励ましてくれる宝の時期だ。

 高校卒業後の自分は、野球で果たせなかった夢を違うステージに求め、ダンスや仕事に打ち込んできた。
 都度、辛く苦しい時期が容赦なく襲ってくる。
 しかし、あの練習に耐えた自分にとって超えられない壁など無いと、今でも信じている。
 あの時期、沢山の人に救っていただいた。その恩返しを必ずしなくてはいけないと、常々考えている。

 叶うことなら、あの頃に戻って、あの素晴らしい仲間と共に、また白球を無心に追いかけたい・・・。

自分のブログである「菅野哲正さすらいブログ」から記事をリアル表示